2006年11月24日
大日本愛国党 香港支部長 S氏 吠える!
大日本愛国党 香港支部長のS氏が、『香港の日本への返還を望む会』を今月(2006年11月22日)、設立した。さっそく入会することにした。香港日本人会と違って、馬鹿高い入会金もない。気取った駐在員妻の馬鹿ババアもいない。入会基準は、純潔日本人であること、月一回以上香港登山に参加できることだ。 (日本に在住している方は、登山に参加しなくても準会員にはなれるそうだ)年会費も無料だ。入会ご希望の方はコメントに記入していただければ、S氏に取次ぎいたします。
もちろん ちょんじんやちゃんころは入会できない。帰化してもだめだそうだ。
『香港の日本への返還を望む会』 会長のS氏によれば、このブログは左傾化していると叱られた。
え〜〜〜これほど中立に書いているのになんで左傾化しているなんて言われるのだろうか???
おそるおそるどうしてか訊ねてみた。
『だいたい、ハッピーバレーとは、レパルスベイとか、そんな呼び方は、毛唐が使うんじゃ!日本人(ニッポン人)ならそんな呼び方しちゃいかん』と厳しい顔で言われてしまった。
確かに、私は、このブログでそういった記述をしている。
大日本愛国党 香港支部長 S氏によると、1941年からわが大日本帝国の香港占領時代は
クィーンズ・ロード ⇒明治通
ケネディ・ロード ⇒大正通
デポー・ロード ⇒昭和通
コンノート・ロード ⇒住吉通
ボウエン・ロード ⇒霧島通
ネイザン・ロード ⇒香取通
ビクトリア・ピーク ⇒香ヶ峰
レパルス・ベイ ⇒緑ヶ浜
ハッピーバレー ⇒青葉峡
ペニンシュラホテル ⇒東亜ホテル
ハーバービューホテル⇒海員ホテル
と呼んでいたそうだ。
そしてペニンシュラホテルには香港占領地総督府があったそうだ。
S氏と待ち合わせとするときは、『明治通沿いの憲兵隊の建物の前で12:00に待ち合わせよう』などと言われるので、しっかり暗記しておかないと待ち合わせ場所に行けなくなる。そして、S氏の時間はいつも日本時間だ。ここ香港では1時間時差があるのだが、それにも気をつけないといけない。
そして、大日本愛国党 香港支部長 S氏は 『日本軍がどうやって、香港の英国軍を降伏させたかしっとるか?』と鋭い口調で聞かれた。
トラトラトラの真珠湾攻撃はよく知っているが、香港占領作戦については、まったく無知だった。
『そういうことじゃ いかん!!』とS氏は吠えた。
そして、大日本愛国党 香港支部長 S氏は、淡々と語り始めた。
1941年(昭和16年)12月8日 大日本帝国陸軍は香港攻撃を開始した。
8日未明、広東省から新界に侵入すると同時に啓徳空港(旧香港国際空港)を爆撃! 12月9日には大帽山付近を占領すると共に、新界防衛の要と言われる城門(SHING MUN)要塞(写真左)を陥落させた。
英国軍は11日に新界、九龍から撤退を開始し、全軍香港島に移動した。
12月13日にわが日本軍は英国軍に無条件降伏を勧告したが、マーク・ヤング総督はこれを拒否!
15日以降も日本軍は爆撃を続け、18日に香港島上陸作戦を開始した。
上陸地は、北角(North Point) とBraemar Pointの2箇所で、19日には香港島東北部を日本軍は制圧した。
その後、日本軍は二手にわかれ、一方は大潭(Tai Tam)経由で赤柱の英海軍基地方面を、もう一方は島中央の尾根から黄泥涌峡(Wong Nai Chung Gap)を抜けて英国軍司令部を目指した。
この黄泥涌峡の攻防戦は熾烈を極め両軍とも多数の死傷者を出した。
12月23日にレパルスベイ・ホテルを日本軍は占領し、赤柱の英軍は孤立した。
12月24日には黄泥涌の貯水地を占領し、香港島のすべての水源はわが日本軍の手に落ちた。
わが大日本帝国陸軍は12月24日には赤柱に突入!
ビクトリア・ピークに逃げた英国軍は、水源を断たれたため、ヤング総督は25日午後7時にペニンシュラホテルで無条件降伏した。。。
大日本愛国党 香港支部長 S氏はここまで、一気に語った。。。
『これが歴史なんだよ だから、早いうちに香港を奪還しないとな』と力強く語った。
そして、『年中、見ることのできる陽明山荘の付近での蛍はな〜、激戦地域で亡くなった日本軍兵士の亡骸なんだよ』 と悲しげに語った。
『香港の日本への返還を望む会』会長のS氏は、『香港トレイル登山は、遠く祖国を離れて戦地で亡くなった日本兵の供養なんだよ』と、、しみじみと語った。
そして、S氏のお財布の中には、日本軍が香港占領後、香港ドルを日本軍が発行した軍票(写真左)と交換させたのだが、その軍票がいつも一枚大切に保管されているのだった。
S氏は、来年の春に、『古きよき 香港 日本占領時代』 (定価1500円)という本を講談社から出版するそうだ。ぜひいまから予約しておきたい。
