2006年12月27日
香港登山 マクリホーストレイル ステージ6〜5
時間も早いので、続いて、マクリホーストレイル(麥理浩徑) ステージ6 ステージ5を逆走して攻略することにした。
ステージ6 大埔公路−城門 4.6キロ 1時間30分 難易度1
ステージ5 大老山−大埔公路 10.6キロ 3時間 難易度2 (本日は標距柱101で離脱)
右手前方には城門水塘がある、1937年に完成したかなりおおきなダムだ。
ここは、太平洋戦争でイギリス軍が我が大日本帝国陸軍を迎え撃つために、肖其灣(しょうけいわん)から金山、城門貯水池、針山(しんざん)の南を結ぶこの線にジン・ドリンカーズ・ラインという防衛線を構築していた。これからその防衛線を突破するのだ。S氏は三八式歩兵銃に銃弾をこめて突撃体制にはいっていた。
1941年12月8日に第23軍飛行隊の爆撃により啓徳空港の英国空軍機を全滅させていたため、制空権を握っていたが、このジン・ドリンカーズ・ラインを突破するのには、攻撃準備に1週間、攻撃に1週間を要すると考えられていた。ところが、歩兵第228連隊の土井連隊長の命令で、若林東一中尉の第10中隊21名が、255高地の英軍砲撃監視所に夜襲をかけた。
英軍は日本軍の総攻撃と勘違いして、大混乱となり3時間で撤退し、日本軍は主要な防衛陣地を次々と占領し、3日間でジン・ドリンカーズ・ラインを突破した。英国軍はこの戦いを機に香港島に全軍撤退した。。
ダムの左側を直進するとマクリホーストレイル(麥理浩徑)の標距柱M125が出てくる。その200メートルくらい先の左側に大きなバーベキューエリアがある。天気もよかったので多数のグループがバーベキューで盛り上がっていた。ここには、比較的綺麗なトイレもあるので立ち寄っておこう。
このバーベキューエリアを横切るようにして、マクリホーストレイルのステージ6に突入する。
いきなり急な石段が我々を出迎えた。
標距柱124の先にはコンクリートでつくられたトーチカが現れた。大日本愛国党のS氏は手榴弾を投げ込み、英国軍を殲滅した。トーチカは侵入禁止の札が立てられていたが、S氏と侵入した。トンネルが網の目のように掘られており、地下で繋がっていた。
奥に進むと、壁には、あの若林東一陸軍大尉の写真が貼られていた。S氏は感激して直立不動で敬礼した。
S氏が若林大尉について語り始めた。
『この攻防戦で活躍した若林中尉は、その後ガダルカナル島で戦死したんじゃ。いつでも戦場では先頭に立って斬りこみ、米軍を震撼させたんじゃ生前、「咲いて牡丹といわれるよりは、散って桜といわれたい」と言っていたんじゃ。。。。。戦場日記には「後に続くものを信ず」と書かれていたんじゃ! それなのに いまの若いもんはなんじゃ!』 S氏の目が涙でいっぱいになっていた。S氏は三八式歩兵銃を構え空に一発発射すると。『若林大尉に捧げ銃(つつ)!!』と叫んだ。若林大尉について⇒詳細
さらに急な階段を登ると、若林部隊が3時間で占領した255高地の砲撃監視所が昔のままの姿で現れた。
中に突入すると英軍は撤退したあとだった。奥まで進むと先ほどの若林大尉の写真のあったトンネルまで地下で続いているようだ。50メートルすすんでもまだトンネルは続いていた。危険なので引き返した。(トーチカ内部は動画参照)
さすが、砲撃監視所からは360度見渡すことが出来る。真後ろには城門水塘が よく見えた。
我々はこの砲撃監視所をあとにして、先を急いだ。今度はかなり急な石段の下りだ。右側に葵涌のマンションが広がっていた。
標距柱122をすぎると、大きな道標が現れ、舗装された道に出る。ここは大埔道に向け左折して登りだ。
九龍サイドのトレイルでは、山の中で生活用水をペットボトルに入れて持ち帰る香港人をよく見かける。よほど貧乏なのだろう。カメラを向けると嫌がっていた。しかしこんな山奥まで水を汲みにくるとは恐れ入ったものだ。
舗装された金山道をさらにすすむと、さきほと通過したウィルソントレイル ルート6と重なる。ここから、九龍水塘までは、広めの車道のなだらかな下りだ。標距柱M120の前後に サルがまた多数出現した。S氏は三八式歩兵銃をサルに向けながら、いつでも戦闘態勢に入れるように警戒していた。今回は、襲われなかった。またセックスをしている間抜なサルもいなかった。
その先に、九龍水塘が見えてきた。
ダムを横断して坂を上ると、そこには大きな道標がありマクリホーストレイル ステージ6は終了する。時間は14時30分だった。まだ退却するには早い時間だ。
S氏は『よ〜〜し ステージ5も攻略だ!』と雄叫びをあげた。ステージ5の途中、標距柱M101の先の沙田坳、本日の出発点まで進軍しようという計画に変更された。
大埔公路にかかる歩道橋を渡り、ステージ5に突入した。
獅子山郊野公園 このおおきな道標が マクリホーストレイル ステージ5(逆走)の始まりだ。
標距柱M115の先、左側に鷹巣山自然教育徑というゲートが現れる。これをくぐって左手にすすもう。
次の攻撃目標は筆架山(BEACON HILL)だ。S氏によると、啓徳空港が営業中、航空機に方向と距離情報を与えるために電波ビーコンをこの山の頂上の施設から出していたので、BEACON HILL(ビーコンヒル)と呼ばれているそうだ。現在は使用されていない。
しばらく薄暗いくねくねとした平坦な山道を歩行することになる。時々左手の木々の間からから九龍水塘が見下ろせる。
この山道でS氏が、敵の銃撃をかわそうとして、足を挫いてしまった。S氏は『俺をおいて進軍しろ』 かみさんには今日、朝、遺書を書いて渡したと語った。しかし、戦友を見捨てることはできないので、一緒に行軍した。
標距柱M111を過ぎたあたりから、急な石段がはじまる。
途中、広めの舗装路(龍欣道)に出た。ここでS氏の足の治療のために休憩した。
しかし、その先も延々と急な石段が続く、道は木々に覆われていて景色もない。S氏は負傷しながらも元気だ。
標距柱M110 付近からは左手に筆架山(BEACON HILL)の頂上の施設が見え隠れする。
筆架山(BEACON HILL)の付近は、360度パノラマの景色が非常にいい。長沙灣、九龍城、鑙石山にあるマンション群を一望できる。(動画参照)頂上手前右手には、石の広場があるここからの景色が一番だ。
山頂のビーコン施設が櫓のような建物があるが、現在では使用されていない。その建造物にS氏はまた爆弾を仕掛けた。
そして石段の坂を下ると、標距柱M109の先には厳重に鉄条網で囲まれた建物があった。
そしてその前に道標があり、戦址遺跡(マクリホーストレイルステージ5)という道標があった。
ここからは道筋に英国軍が設置した。シェルター(涼亭)、交通壕 トンネル(地洞)、マーカーストーン(座標石)トーチカ(機槍堡)が17箇所も点在しているのだ。
否が応でも、S氏のテンションは上がっていた。S氏は『突撃〜〜〜〜』と怪我も忘れて、小走りに突進した。本日の最終目的地 沙田坳まで3.6キロだった。時間はすでに16時だった。
しばらくは平坦な道が続いた。右手には、下界のマンション群が見渡せる。
前方には 獅子山(LION ROCK)が綺麗に見えた。
標距柱M108の先には、英国軍がつくったマーカーストーン(座標)が出現する。 そしてさらに5分ほど進軍すると、トンネルもあった。入口は塞がれていて侵入することは出来なかった。
石段を下ると、休憩所に到着した。この先には、獅子山(写真左)があるが、マクロホースは、その山の左側面にあり山には登らない。もちろん、獅子山に登ることも出来るのだが、時間がかなり遅くなっていたので今回はパスした。
そして、さらに直進すると、次々とマーカーストーン(座標)を発見することが出来る。
標距柱M106の手前には、トーチカを発見した、かなり破壊されていてあまり原型をとどめていなかった。こんなもので、我が大日本帝国陸軍を食い止められたとは思えなかった。
その先は、木々に覆われた薄暗い平坦な道が続いた。マーカーストーン(座標)も多数発見できた。トーチカもまた姿を現した。
沙田坳方面と沙田坳邨方面への分岐路にぶちあたるがここは、左手にすすむ。そしてまた石段の坂だ。
標距柱M103の先にはまたマーカーストーン(座標)がいくつか現れる。S氏はこんなもの至る所につくったら敵軍に場所を教えるようなものだ!とあきれていた。
そして急な石段の下りが待ち受けている。眼下には、本日の出発点である獅子亭が小さく見えた。そこまで急坂の連続だ。
そして、とうとうゴールに到着した。時間は17:05だった。
しかし、MTR『黄大仙』駅まで、さらに40分以上進軍しなけでばならなかった。
疲れた足腰に舗装された道路の坂道は辛い。すでに日が暮れかかっていた。MTR『黄大仙』駅に到着したのは、18時だった。あたりはすっかり暗くなっていた。。
万歩計は5万1千歩を指していた。出発したのが、8時45分なので、まるまる9時間の歩行だった。歩行距離は約30キロだ。
